ボスニアヘルツェゴビナ紛争とモスタルという街

ついに長い長いテスト期間が終わりました。12月中旬にもテストがあったので、11月中旬ぐらいから約2か月くらいのテスト勉強。学部生の身分で修士向けの授業を多く取るのはどれだけ大変かを痛感した留学前期です。僕はほんとに要領悪い人間なので長い期間を設定して勉強するしかないのですが、周りの人達はほんとに短期間で集中して勉強していたので本当にすごいなとつくづく力の差を感じました。後期はより科目も専門的になり、かつ取りたい授業も揃っているので楽しみです。

 

さて、テストも終わり久しぶりの一人旅に出かけてみました。場所はボスニアヘルツェゴビナモンテネグロ!皆さんこれらの国聞いたことあるでしょうか?笑 あまり日本人にはなじみの無い国だと思います。危なくないのかな?そう思われた方もいるでしょう。いや全然そんなことはないんです。この投稿ではまずボスニアヘルツェゴビナ紛争の歴史とモスタルという世界遺産の街について書いていきますね。

 

ボスニアヘルツェゴビナバルカン半島の西北に位置しています。かつてはオスマン帝国に支配され、過去から今に至るまで複雑な民族構成となっています。主な民族は、ボシュニャク人(イスラム教徒)、クロアチア人(カトリック教徒)、セルビア人(セルビア正教徒)。そしてこの3民族による対立が、悲惨なボスニア紛争を生みました。ユーゴスラビアのカリスマである第2代大統領チトーの死後、統率力の無くなったバルカン半島一帯では民族対立が紛争に発展します。その中でも特に激しかったのがボスニア紛争です。

 

原因はチトーの後を継いだユーゴスラビア第3代大統領ミロシェヴィッチ。彼は「大セルビア主義」を掲げ、セルビア人主体の国家を作ろうとしました。これに反対したボシュニャク人やクロアチア人は国家の樹立を宣言します。それがボスニアヘルツェゴビナです。しかし今度はボスニア領内にいたセルビア人達がこの独立に反発し、スルプスカ共和国をつくります。現在も存在し、ボスニアヘルツェゴビナを構成する一部になっています(今回訪れたバニャルカはその首都)。

 

初めはユーゴスラビア&スルプスカ共和国(セルビア人)vsボスニアヘルツェゴビナ(クロアチア人&ボシュニャク人)という構図で紛争が始まりました。ですがその後、セルビア人とクロアチア人との間でボスニアヘルツェゴビナ分割交渉が行われたことがきっかけとなって、クロアチア人とボシュニャク人の間でも対立が深まります。私が訪れたモスタルでは、クロアチア人とボシュニャク人の間で戦闘が繰り広げられました。アメリカやNATOの介入により4ヶ月の停戦がありましたが、それでも紛争は収まることはなく、再び戦闘が始まります。

 

そしてこの停戦後の1995年、戦後のヨーロッパで最悪のジェノサイドと言われる「スレブレニツァの虐殺」が起こります。こちらに関しては耳にしたことがある方もいるのではないでしょうか。スレブレニツァは当時、国連の支配下の安全地帯でした。しかしスルプスカ共和国軍は侵攻を開始し、スレブレニツァを制圧します。派遣されていた国連のオランダ軍は何も出来ずにスレブレニツァを明け渡しました。それもそのはず、数で全く歯が立っていなかったのです。結果として保護されなかった多くのボシュニャク人がセルビア人の手によって虐殺されました。何のためのPKOだったのか。統率が取れておらず、殺害された多くの人を守れなかった国連にも重大な責任があると私は感じています。

 

その後、NATOによるセルビア人地域への空爆は激しさを増し、セルビア人は勢いを失っていきます。力を失ったセルビア勢力はついに和平に向けて動き出し、そして同年にパリでデイトン合意が結ばれ、ボスニア紛争終結しました。

 

この紛争では、戦闘やジェノサイドに関わった多くの軍人が戦犯として裁かれています。しかし彼らの気持ちはこうなのです。「昔は虐げられる立場にあった、だからやり返した。」民族統一意識というのは時に過激な思想を生み出します。この紛争では、一方的にセルビア人が悪いのは事実です。ですが彼らはその昔逆の立場にあった。ただ単なる領土問題ではない、深い民族の対立の歴史がここには関わっていたのです。

 

大まかにボスニア紛争の歴史を書きました。私はこれらの歴史を学んでから、実際にこの目で紛争の舞台となった地域を見てみたいと考えました。それが今回ボスニアヘルツェゴビナを訪れた理由です。先程も述べましたが、この旅で訪れたのは北部のバニャルカと南部のモスタル。まずブリュッセルから飛行機でボスニア北部のバニャルカに飛び、そこからバスで雪道を7時間かけてモスタルに到着(バス慣れしてない人は確実に酔います)。モスタルにはクロアチアの観光地ドヴロヴニクからバスで4時間で行くことが出来るので、完全にルートを間違えました。。。。。夜行バスだったので朝に到着し、まずホテルに荷物を置いてそこから丸1日観光しました。

 

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ネレトヴァ川を境に、クロアチア人とボシュニャク人が分かれて暮らす

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ボシュニャク人居住区

観光シーズンでは無いこともあり、街は非常に静かでした。まず私が訪れたのがスタリ・モスト(古い橋)。この橋はモスタルの平和の象徴になっています。しかし写真の様にネレトヴァ川を境に、クロアチア人とボシュニャク人が分かれて暮らしています。そこまで表面化してはいないものの、まだまだそれぞれの強い民族意識は残っていると感じます。しかしどちらかがすごく栄えているというわけでも無く、人々は穏やかに過ごしていました。ボシュニャク人居住区には多くのモスクやミナレットがありました。

 

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Old Town どこかオスマン帝国時代の風情を感じます

近くの旧市街にも行きましたが、こちらはどこかオスマン帝国時代の風情を感じます。オリエンタルな雰囲気が漂っていました。料理に関してもトルコのケバブのような食べ物があり、やはりその時代の文化が根差していました。

 

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生々しい銃弾の痕

 

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当時のままの建物もあります

また、街には多くの銃弾の痕や壊された建物がありました。これらは私にとっては衝撃的で、本当に言葉が出なかったです。ここには数枚しか載せていませんが、街中至る所に銃弾の痕があります。そして街の所々に「Don't forget」と書かれた石が。この紛争を忘れずにそして二度と起こさないで欲しい、そういったメッセージでしょうか。思えば紛争が起こっていたのもほんの数十年前です。その光景は生々しく、当時の紛争の悲惨さが分かります。

 

光と影、両方が垣間見えたモスタルでした。観光地でもあり、とても治安は良かったです。今は寒いですが、夏になると気温も上がり観光しやすいようなので皆さんもぜひ訪れてみてください。

 

この投稿ではボスニア紛争の歴史と、私が訪れたモスタルという街について書きました。しかしボスニア紛争の話を多く書きました。それはもっと多くの人達に、ヨーロッパでこんな悲惨な戦争があったことを知って欲しいからです。日本ではあまりこういった民族対立の話は話題になりません。それはなぜか。同一民族が大多数を占める日本では、そういったことに人々が関心を持たないからです。我々はよりこの問題に目を向けるべきでしょう。今まで目を反らしてきた。だから移民・難民や外国人不法就労者の問題についても話が進まないのです。政府も有効な対策を取れていない。多くの人が感心を持てばメディアも国も必ず動きます。私はそれを信じてこれからも勉強を続け、多民族共生の社会のあり方を模索していきます。