ボランティア③+最近思う事

2週間のボランティアを終えてベルギーに帰国しました。ベルギー生活に慣れてしまったのか、帰ってきた時は何かホッとしました。今回はボランティアに関するブログの最終回です。実際に全ての日程を終えて学んだこと、そして最近の出来事に関して書いていきたいと思います。

 

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アテネの夜景

まず終えて思ったのが、あっという間だったという事。限られた時間であったとは言え本当に短かったです。しかしその分かなり集中して取り組むことが出来ました。

 

まずはメインで行っていた活動について。私は今回ボランティアをした団体のCFSというチームに所属していました。CFSとはChild Friendly Spaceの略。具体的には、英語や数学、創作活動など様々なことを通して子供達に教育やレクリエーションの機会を与えています。人生で初めてのボランティアだった事もあり、慣れない事の連続でした。1日の多くの時間を机から離れて子供達と過ごしました。子供と触れあうのが大好きだったとはいえ、元気いっぱいでかつ言語をあまり話すことができない子供達とコミュニケーションを取るのは本当に大変でした(学校の先生ってすごい.....)。ボランティア前には、それぞれの子供にあった機会を提供するなんて言ってましたが、終えて感じたのはとても2週間では貢献できなかったという事。子供達の考えを理解し、彼らのバックグラウンドに注意した上で教えることに必死で、とても新しいプログラムを実行するまでには至りませんでした。そしてだんだんと信頼してきてくれていた生徒達を置いてこんな短い時間で去るのは教育上良くないし、子供たちを裏切ってしまったという気持ちがありました。子供達の中にはギリシャ語や英語について行けずにドロップアウトしたり、紛争から逃れてきて十分な教育を受けていない子が多く居ます。そして彼らはそういったトラウマを心の中に抱えています。本来先生は長い時間をかけて生徒に寄り添ってあげるべきです。だからこそ2週間で去ってしまうのはとても罪悪感を感じ、彼らに社会への不満や人への不信感を植え付けてしまったのではないかと思いました。できる限り彼らのサポートをしましたが、最終的には彼らにいち早く一般の学校に通ってもらいたいです。なぜならそれが彼らにとって1番だと思うからです。これからギリシャや他の国の社会に適応して生活していくためにはまずは学校に通って他の地元の子供達と関わりを持つことが本当に重要です。そしてそれが移民・難民の社会統合につながっていきます。少ししか関わることが出来ませんでしたが、彼らの無邪気な笑顔を忘れることはありません。大きく成長してくれると信じていますし、何人か連絡先がある子もいるので将来大きくなった時にまた会いたいです。

 

メインの活動と並行して、彼らの両親とも話をしました。前の投稿でも書きましたが、親たちの中には壮絶な経験をして祖国から逃れてきた人が少なくありません。シリアやアフガニスタンパレスチナからの難民、トルコからの政治難民、イランやDRCからの移民など様々な国からギリシャへと逃げてきたり移り住んだりした人達がいます。昨今の国境審査の厳格化や彼らに対する風当たりの強まりを受け、ギリシャから動けずにいる人が本当に多く居ました。特に衝撃的だったのはアフガニスタンから来た女性の話。彼女は6ヵ国語を話すことができ、アフガニスタンではドイツ語を教えていました。しかし男性と恋愛をし、それが周囲にあらわになり差別を受けました。アフガニスタンでは若い男女の交際はほとんど認められていないそうです。いわゆるお見合いでしか結婚が出来ないのです。しかし彼女は周囲の反対を押し切って交際を続けたため、それを気に食わない周囲が差別を始めました。それに耐えられなくなり、また良い仕事の機会も得られなかったためギリシャに移住してきました。彼女は、イスラム圏における女性差別や結婚観は本当に問題だと言っていました。イスラム教徒であるが、女性としてそういった点には非常に疑問を感じるし、それをそのまま受容している社会に憤りを感じると語っていました。一緒に議論していたイランから来たボランティアの同僚も、イランにも似たような状況を持つ地域があると語っていました。ネットをみたり勉強をしているだけでは知り得ない事が毎日の様に自分の耳に入ってきて、衝撃でありかつそういった辛い過去を聞いて胸が痛くなりました。そしてトラウマであるかも知れないのに、正直に話してくれた事にも驚きでした。周りに話すことで祖国では今このような事が起こっているんだと伝えたかった人が多かったと感じます。

 

あとこれはアテネに居て思った事。よくアテネは治安が悪い(ここでいう治安悪いとは、スリや強引な物売りが比較的多い、又は麻薬密売が普通に周りに見える所で行われている、とします)と言われているみたいですが、確かに他都市と比べればそうでしょう。しかし実際に滞在して全く危険な目に遭った事は無かったです。それはお前がそういう目に遭った事がないからやろと言われます。まあそれはごもっともなんですが、私は毎回身の回りにはしっかりと注意を払っています。周りの人を見ているとあまり警戒していない人がちらほら。強引な物売りなど無視するのが普通。自分の不注意からそういう目に遭ったのにそれでここは治安悪いとかぐちぐち言っている人を見ると呆れます。そしてそういった事がインターネット上で広がり、その国もしくは都市が風評被害を受けるだけです。もし自分がこれからスリなどに遭えばそりゃ落ち込みますが、自分の不注意だな、で終わり。もちろん盗んだ側も悪いですが、注意を怠った自分にも大いに非があるでしょう。大都市や有名な観光地なんてどこも治安が悪いです(極論)。パリもロンドンもそう。日本で言うならば東京や大阪がその類いに入るかもしれません。強盗や発砲事件がよく起きるとか、テロが頻発しているとか、それは本当に危ないと言えます。しかし、自分自身の注意だけで守れるような犯罪が多いだけで絶対的にそう判断しないで頂きたい。

 

そしてここでもう一つ言いたいことがあります。ツイッターやインスタグラムにも載せたのですが、それはこの度のノートルダム大聖堂での火災の事。これに関する事で強い疑念や怒りの様なものを覚えたのでこの場を借りて書かせて頂きたいです。4月15日、フランスはパリのノートルダム大聖堂が火災に見舞われ、屋根や尖塔が焼け落ちました。この時、多くのテレビやSNSでは大聖堂が燃えている動画が拡散され、世界は衝撃に包まれました。私はここに疑問を抱いたのです。アフリカ南部で起きたサイクロンの事も、シリアやイエメンなどでの内戦にもほとんど反応しなかった人達が、いきなり今回の件には強い反応を示してSNSで騒いでいました。正直、え?と思いました。確かに大聖堂はゴシックと呼ばれる建築様式の起源であって、当時の最高技術が結集されて作られ、幾度もの災難にも負けることなく歴史の中でフランスのシンボルとなってきました。フランス国民が大きく失望するのは分かります。しかしそうではない多くの人々が異常なまでに反応するのは甚だ不思議でなりませんでした。そしてその再建のために多額の寄付が集まっています。価値の喪失は悲しむべき事ですが、大金をかけて現代の技術を用いて完全再現した所でそういった歴史の重みから来る重要性は取り戻せないし、ただの観光名所となるだけです。正直多額の寄付をした人達は、大きな話題となっている事に寄付をすることで名声を求めているだけではないのかと思ってしまいました。ただの観光名所となってしまうくらいなら、火災がおきた事も歴史として語り継いでいって欲しいです。具体的に言うと、最低限の安全対策だけして完全再建などせずにありのままの状態で保存してほしいという事。また、こういった事には寄付が集まるのに内戦やテロなどで本当に苦しんでいる人達の元にそういった寄付が集まらないのは本当に悲しいです。最近はスリランカで大きなテロが起き、多くの人が亡くなりました。しかしグーグルの検索結果によると、「ノートルダム」という言葉が「スリランカ」という言葉の約5倍から9倍検索されていたそうです。ほんとに皮肉なもんだなと思いました。同じキリスト教に関する出来事であるのにこうも違います。最近はこういった風潮に怒りさえ感じてきました。イエメンやシリアでの内戦、アフリカ北部での政変、南部のサイクロン被害、DRCでの武装勢力の乱立、ヨーロッパへの難民流入問題、ベネズエラでの政情、未だ続くフランスのイエローベスト運動などもっと注目されるべき話題は多くあります。自ら世界の色んな所に目を向けて欲しい。そう願うばかりです。

 

最後に。今回ギリシャという国でボランティアをして、あまり自分自身貢献できなかった悔しい思いもありますが、微力ながらも何人かに自分のサポートを喜んでもらえて本当に嬉しかったです。また何年もの経験を持った同僚達と一緒に働き、様々なことを教えてもらいました。どうやって難民達の心に寄り添っていくか。周りの子供達よりも注意散漫な生徒とどう向き合うか。などなど。色んな仕事をしながら、大変なはずなのにそれでも人を助けたい。考えの軸はぶれていなかったです。誰も見捨てる事はない、と皆強い信念を持ってやっていました。そして同時に全く努力や勉強が今の自分には足りていないと思いました。週2回のミーティングで、話が発展して現実に起きている紛争や難民の問題などと結びられて議論が発展した時、とてもその会話について行けませんでした。英語力の問題もありますが、圧倒的にインプットが足りていません。残り少ない留学においても、日本に帰国してからもしっかり勉強は継続しなければならないと強く思いました。言語においてもそうです。移民や難民には英語を話せない人が多く居ます。だからこそ彼らの言語で対話することで彼らの本当の悩みなどが聞き出せます。そういった理由から英語以外の言語の重要性を強く感じました。今回の例で言うと、トルコ語アラビア語ペルシャ語などが挙げられます。

 

今回休暇を用いてボランティアをし、少しですが移民・難民の力になれました。そして留学前期が終わり、正直少したるんでいた自分に発破をかける事が出来たと思います。

 

長文読んで頂きありがとうございました。

ボランティア②

前のブログでも書きましたが、現在ギリシャの首都アテネでボランティアを行っています。今回は初週を終えて感じたことを書いていきます。

 

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リカヴィトス山から望むアクロポリスアテネ市街

ボランティア初週を終えましたが、一週目はとにかく必死でした。難民の人達と近くで対面して話す機会は今までほとんど無かったですし、実際に話を聞いていると胸が痛む内容ばかりで正直辛いときもありました。シリア内戦。女性差別。政治的理由による迫害。などなど。ニュースなどである程度、そういった問題が起きている事は把握していましたが、実際に被害を受けた当事者である方々の話を聞くと状況はより深刻であることが分かりました。

 

トルコから来た男性は経済学の博士号を持っており、トルコ政府と仕事をしていました。しかし2016年に起きたクーデターに加担したと疑われ、政府に迫害を受け、ギリシャに避難。そして現在は難民となりました。このクーデターの後にエルドアン大統領は大粛正を行い、多くの司法・軍関係者、警察官、公務員が職を失いました。彼はその一人です。これはあくまで一例ですが、移民・難民の中にはこのように高いスキルを持った人が多くいます。

 

大人だけでなく子供達も問題を抱えています。トルコから来た子はギリシャ語について行けずドロップアウト。シリアやアフガニスタンから来た子供達はそもそも学校に通った事がありませんでした。彼らはそもそも学びの場で何をしたら良いのかの分別が付かないので、周りの子供よりもかなり注意散漫です。学ぶ以前に、どう振る舞うかを教える必要がありました。

 

アテネは人種のるつぼです。様々な国や地域から来た人達が生活しています。到着するまでは正直こんなに興味深い街であるとは思っていませんでした。実際に訪れて生活してみると、世界各地から人が集まっているのを感じます。様々な文化が混じり合い、まさに世界都市です。そして世界で最も古い都市の一つでもあり、その歴史は紀元前にまで遡ります。街には至る所に遺跡があり、古代の面影を感じさせます。

 

とにかく様々なことを考えさせられた1週目でしたが、多くの人に支えられました。今回お世話になっている団体には、心理学のエキスパート達や多くのボランティア経験者がいます。分からない事があっても最年少の僕に丁寧に説明してくれました。週2回ミーティングがあるのですが、そこでも活発にフィードバックをくれました。そして同じ時期にボランティアを始めた、イギリス人とインド人の2人にもとても感謝しています。毎晩ボランティアや互いの国のことに関して語り合い、とても充実した時間を過ごせています(2人ともネイティブなので英語力もアップ笑)。残り1週間しか残っていませんが、真摯に移民・難民の人達、そしてその子供達と向き合い、最善を尽くしたいと思います。そして様々な事を学んでこれからの勉強に生かしていきたいです。

 

ボランティア①

1ヶ月ぶりの投稿です。再来週からギリシャアテネで2週間ボランティアをするのですが、それに関する投稿を何回かに分けてしていきたいと思います。

 

ギリシャには他国から多くの難民が流入しています。しかし彼らの目的地はギリシャではなく、西欧諸国。ギリシャは通過点です。しかし昨今の国境審査の厳格化などもあり、ギリシャにとどまらざるを得ない難民が多く居ます。その影響から、ギリシャの総人口の約10%は難民で構成されています。そんな中、経済危機や高い失業率に対応できない政府に不安を持ったギリシャ人の不満の矛先が難民に向けられます。難民が多く居る中で、彼らが安定した生活を送るためにはギリシャの社会に溶け込む必要があります。まさに難民の社会統合が大きな問題となっている国の1つでもあるのです。

 

難民の社会統合に関して授業などで学ぶだけではなく、実際に現場でその過程に携わってみたいと思い、今回初めに考えていたセルビアではなく直接そういった問題の解決に携わっているギリシャの団体を選びました。

 

団体の名前は Hestia Hellas 。2017年に設立された新しい団体ですが、マネージャーの方が何十年も人道支援のフィールドで活躍されている方で、そういった方から直接話を聞いて学び取りたいという事がこの団体を選んだ決め手になりました。また面接を行った際、担当の方が熱く活動を語ってくださった事や自分のつたない英語を親身に聞いて頂いた事も選んだ理由です。

 

実際にする活動は、体系化されたレクリエーションの機会を難民の子供達に与えることです。新しい環境で難民の子供達が暮らしていくために、それぞれが求めているレクリエーションや学習の機会をしっかりと体系化した上で提供します。どうすれば難民の子供達が周囲の環境に馴染んで行くことが出来るのか。それを考えることが今回の課題です。また彼らは祖国で辛い思いを経験し、そのトラウマを持っているかもしれません。ただプログラムを作って提供するだけではなく、心に傷を負った子も居る中でそういった子供達とどうやって接するのか。そこも考えなければいけないでしょう。

 

今回は団体が提供してくれる住居で、他のボランティアの方々と共同生活を行います。留学先の大学のイースター休暇を使ってボランティアを行うので2週間という本当に短い期間しか携わることが出来ないのですが、全力で取り組みたいと思います。

Makala (ドキュメンタリ-)

今回は初めて映画について。寮の目の前にZEDという映画館(大学の映画館?)があり、そこでは毎日映画が上映されています。今上映されているモノというよりかは過去の映画とかを復刻上映していて、そこで映画を観てきました。今回見たのは "Makala" という映画。フランスのエマニュエル・グラス監督の作品で、カンヌで国際批評家週間に選ばれ、作品賞を受賞しています。

 

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Makala

舞台はアフリカ大陸中央部、コンゴ民主共和国。田舎の農村に住むカブイタという青年の生活を追ったドキュメンタリー映画です。

 

あらすじは2017年の東京国際映画祭のサイトに載ってあったのでそちらを引用させて頂きます。

 

アフリカはコンゴの辺境の地に暮らす青年は、家族に良き未来をもたらしたいと願っている。彼の持ち物といえば、自らの両手と周囲の森、そして鋼鉄の意志だけだ。労働の成果を売るべく街に向かうが、それは途方もなく過酷な道程であり、彼は努力の真の価値と夢の代償に気付いていく…。都会で生活する者にとっては想像を絶する映像に唖然とするしかない、迫力と感動のドキュメンタリーである。コンゴで撮影経験のあった監督は、行商に向かう人々の姿に圧倒され新作の主題とすることに決める。彼らはいったいどこから来て、その積み荷の中身はいったい何で、それはいかに作られるのか?取材の過程で知り合った青年カブイタ・カソンゴの姿勢が気に入り、ともに映画の準備に入る。カブイタの日々を描く作品ではあるが、彼を一方的に撮ったわけではなく本作は彼と共同で作った作品だと監督は語る。自分で作った物を自分で売るという経済活動の最もシンプルな形が、いかに過酷でありうるか。カブイタの生き方を通じ、真の労働の価値について深く考えさせられること必至である。」

 

観ているうちに私はこの映画に引き込まれていきました。ナレーションも全くない、ただ彼の日常が映し出されている、このシンプルさが私をその場にいるような雰囲気にさせてくれました。コンゴ大自然と共に懸命に生きる青年の姿。彼を襲う災難。努力しても夢を叶えられない絶望。それらがフィルムを通して伝わり、終わったときは一瞬無の状態になりました。カンヌで賞を獲得したのも納得です。観る者を引き込む力がこの映画にはありました。

 

4月にはセルビアの難民キャンプでのボランティアを控え、ますますこれから貧困などについて考える機会が増えてきます。ひたすら勉強してそういった問題を解決して提言できるような道に進むのか、それとも実際にコミュニケーションを取りながら一人一人の貧困を無くしていく様な活動をしていきたいのか、自分でもまだ決められていません。しかし、今はイギリスの大学院に進学して開発学についてしっかり勉強したいという気持ちがあります。そのためには就職をして貯金をしたりと様々な準備をしていかなくてはなりません。

 

まずは留学の残り半年間で、多く学び多く経験していきたいと思います。

モンテネグロ、コトル

ボスニアヘルツェゴビナモスタルから、クロアチアのドヴロヴニクを経由してモンテネグロのコトルという街に着きました。バスで7時間ほどだったのですが、途中道にバスから見えたアドリア海の景色はとても美しかったです。

 

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Kotor

さて、コトルについてですが、この街は世界遺産に登録されています。写真を見て頂いたら分かると思いますが、荒々しい山々と澄んだ海のコントラストがとても美しいです。ヨーロッパ最南端のフィヨルドとも言われており、その景色は圧巻の一言でした。夏は観光客で賑わうようで、沿岸には海水浴場もありました。大きなクルーズ船も来港するようです。

 

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Old Town

観光シーズンではない1月の末に観光したので観光客は少なく、ゆっくりと散策できました。旧市街には中世の街並みがそのまま残っており、その時代にタイムスリップした様な気分になります。あ、あと猫がとても多かったですね。人に慣れているのかすぐに近寄ってきて撫でてほしいアピールをしてきます。

 

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Fortress

旧市街から急な石畳の階段を1時間ほど登ると、このような要塞に到着します。ここがまたすごかった。全く安全対策が取られておらず今にも崩れそうな要塞なのですが、それは逆に我々にありのままの姿を見せてくれました。一言で言うと、ラピュタの世界です。奥には岩肌がむき出しの山々が。見ていて壮大でした。

 

簡単にですが、モンテネグロのコトルの紹介でした。すごく良い街です。クロアチアのドヴロヴニクからバスで3~4時間ほどで行けるのでぜひ皆さんも是非立ち寄ってみてください。まだ見ぬ景色が待っていると思います。

ボスニアヘルツェゴビナ紛争とモスタルという街

ついに長い長いテスト期間が終わりました。12月中旬にもテストがあったので、11月中旬ぐらいから約2か月くらいのテスト勉強。学部生の身分で修士向けの授業を多く取るのはどれだけ大変かを痛感した留学前期です。僕はほんとに要領悪い人間なので長い期間を設定して勉強するしかないのですが、周りの人達はほんとに短期間で集中して勉強していたので本当にすごいなとつくづく力の差を感じました。後期はより科目も専門的になり、かつ取りたい授業も揃っているので楽しみです。

 

さて、テストも終わり久しぶりの一人旅に出かけてみました。場所はボスニアヘルツェゴビナモンテネグロ!皆さんこれらの国聞いたことあるでしょうか?笑 あまり日本人にはなじみの無い国だと思います。危なくないのかな?そう思われた方もいるでしょう。いや全然そんなことはないんです。この投稿ではまずボスニアヘルツェゴビナ紛争の歴史とモスタルという世界遺産の街について書いていきますね。

 

ボスニアヘルツェゴビナバルカン半島の西北に位置しています。かつてはオスマン帝国に支配され、過去から今に至るまで複雑な民族構成となっています。主な民族は、ボシュニャク人(イスラム教徒)、クロアチア人(カトリック教徒)、セルビア人(セルビア正教徒)。そしてこの3民族による対立が、悲惨なボスニア紛争を生みました。ユーゴスラビアのカリスマである第2代大統領チトーの死後、統率力の無くなったバルカン半島一帯では民族対立が紛争に発展します。その中でも特に激しかったのがボスニア紛争です。

 

原因はチトーの後を継いだユーゴスラビア第3代大統領ミロシェヴィッチ。彼は「大セルビア主義」を掲げ、セルビア人主体の国家を作ろうとしました。これに反対したボシュニャク人やクロアチア人は国家の樹立を宣言します。それがボスニアヘルツェゴビナです。しかし今度はボスニア領内にいたセルビア人達がこの独立に反発し、スルプスカ共和国をつくります。現在も存在し、ボスニアヘルツェゴビナを構成する一部になっています(今回訪れたバニャルカはその首都)。

 

初めはユーゴスラビア&スルプスカ共和国(セルビア人)vsボスニアヘルツェゴビナ(クロアチア人&ボシュニャク人)という構図で紛争が始まりました。ですがその後、セルビア人とクロアチア人との間でボスニアヘルツェゴビナ分割交渉が行われたことがきっかけとなって、クロアチア人とボシュニャク人の間でも対立が深まります。私が訪れたモスタルでは、クロアチア人とボシュニャク人の間で戦闘が繰り広げられました。アメリカやNATOの介入により4ヶ月の停戦がありましたが、それでも紛争は収まることはなく、再び戦闘が始まります。

 

そしてこの停戦後の1995年、戦後のヨーロッパで最悪のジェノサイドと言われる「スレブレニツァの虐殺」が起こります。こちらに関しては耳にしたことがある方もいるのではないでしょうか。スレブレニツァは当時、国連の支配下の安全地帯でした。しかしスルプスカ共和国軍は侵攻を開始し、スレブレニツァを制圧します。派遣されていた国連のオランダ軍は何も出来ずにスレブレニツァを明け渡しました。それもそのはず、数で全く歯が立っていなかったのです。結果として保護されなかった多くのボシュニャク人がセルビア人の手によって虐殺されました。何のためのPKOだったのか。統率が取れておらず、殺害された多くの人を守れなかった国連にも重大な責任があると私は感じています。

 

その後、NATOによるセルビア人地域への空爆は激しさを増し、セルビア人は勢いを失っていきます。力を失ったセルビア勢力はついに和平に向けて動き出し、そして同年にパリでデイトン合意が結ばれ、ボスニア紛争終結しました。

 

この紛争では、戦闘やジェノサイドに関わった多くの軍人が戦犯として裁かれています。しかし彼らの気持ちはこうなのです。「昔は虐げられる立場にあった、だからやり返した。」民族統一意識というのは時に過激な思想を生み出します。この紛争では、一方的にセルビア人が悪いのは事実です。ですが彼らはその昔逆の立場にあった。ただ単なる領土問題ではない、深い民族の対立の歴史がここには関わっていたのです。

 

大まかにボスニア紛争の歴史を書きました。私はこれらの歴史を学んでから、実際にこの目で紛争の舞台となった地域を見てみたいと考えました。それが今回ボスニアヘルツェゴビナを訪れた理由です。先程も述べましたが、この旅で訪れたのは北部のバニャルカと南部のモスタル。まずブリュッセルから飛行機でボスニア北部のバニャルカに飛び、そこからバスで雪道を7時間かけてモスタルに到着(バス慣れしてない人は確実に酔います)。モスタルにはクロアチアの観光地ドヴロヴニクからバスで4時間で行くことが出来るので、完全にルートを間違えました。。。。。夜行バスだったので朝に到着し、まずホテルに荷物を置いてそこから丸1日観光しました。

 

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ネレトヴァ川を境に、クロアチア人とボシュニャク人が分かれて暮らす

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ボシュニャク人居住区

観光シーズンでは無いこともあり、街は非常に静かでした。まず私が訪れたのがスタリ・モスト(古い橋)。この橋はモスタルの平和の象徴になっています。しかし写真の様にネレトヴァ川を境に、クロアチア人とボシュニャク人が分かれて暮らしています。そこまで表面化してはいないものの、まだまだそれぞれの強い民族意識は残っていると感じます。しかしどちらかがすごく栄えているというわけでも無く、人々は穏やかに過ごしていました。ボシュニャク人居住区には多くのモスクやミナレットがありました。

 

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Old Town どこかオスマン帝国時代の風情を感じます

近くの旧市街にも行きましたが、こちらはどこかオスマン帝国時代の風情を感じます。オリエンタルな雰囲気が漂っていました。料理に関してもトルコのケバブのような食べ物があり、やはりその時代の文化が根差していました。

 

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生々しい銃弾の痕

 

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当時のままの建物もあります

また、街には多くの銃弾の痕や壊された建物がありました。これらは私にとっては衝撃的で、本当に言葉が出なかったです。ここには数枚しか載せていませんが、街中至る所に銃弾の痕があります。そして街の所々に「Don't forget」と書かれた石が。この紛争を忘れずにそして二度と起こさないで欲しい、そういったメッセージでしょうか。思えば紛争が起こっていたのもほんの数十年前です。その光景は生々しく、当時の紛争の悲惨さが分かります。

 

光と影、両方が垣間見えたモスタルでした。観光地でもあり、とても治安は良かったです。今は寒いですが、夏になると気温も上がり観光しやすいようなので皆さんもぜひ訪れてみてください。

 

この投稿ではボスニア紛争の歴史と、私が訪れたモスタルという街について書きました。しかしボスニア紛争の話を多く書きました。それはもっと多くの人達に、ヨーロッパでこんな悲惨な戦争があったことを知って欲しいからです。日本ではあまりこういった民族対立の話は話題になりません。それはなぜか。同一民族が大多数を占める日本では、そういったことに人々が関心を持たないからです。我々はよりこの問題に目を向けるべきでしょう。今まで目を反らしてきた。だから移民・難民や外国人不法就労者の問題についても話が進まないのです。政府も有効な対策を取れていない。多くの人が感心を持てばメディアも国も必ず動きます。私はそれを信じてこれからも勉強を続け、多民族共生の社会のあり方を模索していきます。

テニス大好き人間

お久しぶりです。あけましておめでとうございます。

 

錦織選手が久しぶりにツアーの大会で優勝したことが嬉しくてたまらないので、初めてテニスに関してのブログを書きたいと思います。いやでもほんとに嬉しい。嬉しすぎて叫びたいのですが、残念ながら自習室にいるんですね。叫べません。テスト勉強疲れたので息抜きに書いてみます。

 

私が初めてテニスに触れたのは中学1年生の時。小学校はずっと水泳と少林寺拳法をしていて、それに飽きたので何か新しいスポーツをしようと思ったのがきっかけでした。当時の私にとってラケットを用いてスポーツをするというのは新鮮で、それに惹かれて硬式テニス部のある中高一貫校に入学しました。そこからテニスにハマり、大学1年生の途中まで約7年間テニスを続けていました。でもはっきりいって下手です。サーブとバックハンドは得意ですが。

 

プレーするのはもちろん好きですが、それと同じくらいにプロの試合を観ることも大好きです。留学先でももう2回現地に赴いて試合を観ました。なんでそんなに観戦が好きになったのかと言うと、ある人の試合を観たからです........

 

そのある人とは、アメリカ人最後のグランドスラムシングルス優勝者、アンディ・ロディック。1世代前(意外と最近です)の世界最強ビッグサーバーで、元世界ランク1位のレジェンドです。彼の、豪快ながらも正確にコースを打ち分けていくプレースタイルをみて虜になりました。サーブが速すぎて、クレーコートにボールが埋まってしまったことがあるくらいです笑。

 

彼の試合を観たのをきっかけに、私はYouTubeなどでテニスの試合をしょっちゅう観るようになりました。そして同時にアメリカテニスの豪快さに釘付けになりました。アメリカはテニス選手育成にとても熱心に取り組んでいます。特に大学テニスは盛んで、何人ものトッププレーヤーを輩出しています。現に現在私が応援している選手はアメリカの大学テニス経験者のジャック・ソック選手です。

 

このような流れで私はテニスが大好きになりました。たぶん人生で唯一、辞めずに続けられている事です笑。

 

そして何人かの友人は知っているのですが、最近また「テニス選手のフルネームと国籍を、写真を見ただけで言えるようになる」という謎の趣味を復活しました。一時期トップ100までは覚えていたのですが、今はたぶん60人くらいしか言えません。頑張って覚え直します(使いどころが無い)。

 

さて、ちょっとだけ嬉しい気持ちをはき出せたので、勉強に戻りたいと思います。

これからも錦織圭とジャックソックは引退まで応援し続けます。